立ち読みコーナー
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登場人物紹介

マーガレット(マギー)・ウェントワース 貴族の娘
ジェイムズ・マシュー・ハトルドン    ラムジー卿。貴族院議員
ロバート                マリン卿。ジェイムズの友人
ヴィヴィアン(ヴィヴ)・バーロウ    ジェイムズの叔母
ソフィー                ジェイムズの妹
ジョンストン              ボウ街逮捕員
ジャック                ジョンストンの部下
ジェラルド・ウェントワース       マーガレットの兄。クラレンドン公爵
フランシス牧師             マギーの求婚者
ウェブスター              ジェイムズの執事
バンクス                ウェントワース家の執事
ミークス                バーロウ家の執事
メアリー                マギーのメイド
アガサ・デュバリー           娼館の女主人
メイジー                娼婦
レディX                娼婦
(p46)
 マギーもお返しにまじまじと見てやったが、彼の容貌に大きな衝撃を受けた。誘拐者は背が高く、脚は長くてたくましく、肩幅は普通の人より広かった。豊かな黒髪のこめかみに白いものが混じり、威厳のある雰囲気を添えていた。整った力強い顔立ちをしていたが、あまり笑ったことがないのか、表情は硬かった。
 男はしばらくのあいだ黙ってマギーを見つめ、彼女が警戒しているのに気づくと、うんざりしたように首のうしろをさすっていらいらとあたりを見まわした。「ぼくはジェイムズ・ハトルドンだ」と唐突に告げた。マギーにぽかんと見つめかえされて、こう付け加える。「きみの兄上の友人だった。ぼくらは戦争中ともに戦った」
 マギーはそれを聞いて驚きを覚え、頭のなかで合点がいくと、不安がいくらか消えた。ジェラルドはよく手紙を書いてくれた。戦友や、彼らとともに参加した戦闘や、彼らとの友情についての長い手紙を。兄がよく話題にしていた友人がひとりいた。手紙から、兄が彼に一目置き、尊敬していたことがわかった。兄は一、二度、その友人をジェイムズ師範と呼んだことがあったが、いつもはたいてい――「ラムジー」マギーは少し息を切らして言った。
「そうだ。ぼくはラムジー卿。きみの兄上はぼくの命を助けようとして亡くなった。彼の最期のたのみは、ぼくがきみの面倒をみることだった」
 マギーはしばらく黙っていた。ジェラルドの死が名誉の戦死だったことは知っていた。マスケット銃の銃弾のまえに身を投げ出して、戦友を守ったのだと、司令官が手紙で詳しく知らせてくれたからだ。だが、兄がだれを守るために死んだのかは知らなかった。その名前は手紙に書かれていなかった。いまこうして兄が救った男性を見ても、苦い落胆を覚えただけだった。ジェラルドはこの男の代わりに死んだわけ?
 思わず表情が硬くなり、きつい声でつい言ってしまった。「わかりました。ではこれはあなたがお聞きになりたくないことかもしれませんが、お許しくださいませ、マイ・ロード。わたしを縛ったり、誘拐したりすることが、兄ジェラルドの遺志とはわたしにはとても思えないんですけれど」
 ラムジー卿は顔をしかめたが、すぐにきびしくこう言った。「引き受けたときはこんなことをするようになるとは思わなかった。しかし、きみの兄上もきみがあんなことまでするようになるとは思っていなかっただろう」
 マギーはその言い方にかちんときた。「それはいったいどういう意味かしら?」
 彼の視線が下におり、マギーは自分が中腰になっていることに気づいた。ケープの下から赤い薄物がかなり露出しており、それが隠しきれないものもすっかり見えていた。自分がさらしているものを見てあざやかなピンク色に頬を染めたマギーは、またベッドに身を寄せた。すぐにラムジー卿の視線は彼女の顔に戻った。紅潮した顔に仮面が冷たく感じ、マギーはとっさに説明しなければと思った。咳払いをしてこう言った。「これはただの変装なの。これをつけないと、あそこでは動きまわれなかったのよ。わかるでしょ?」
「あたりまえだろう!」男性はひどくぞっとしたように同意した。そしてきびしい調子に戻って言った。「そもそもきみはあんなところにいるべきではなかった。きみのような貴婦人があんな場所にいるいわれはないし、あんな仕事を……」ふさわしい表現をさがしているらしく、彼がことばを切ったので、マギーは口をはさんだ。
「ええ、でも……わたしは生活費を稼がなくてはならないんです、マイ・ロード。兄が残してくれた霊廟を維持したり、使用人たちを食べさせていくために、だれかが費用を払わなくてはなりませんから」ともっともらしく言ってやったが、ラムジー卿はますます不快そうに唇を引き結んだだけのようだった。
 ラムジー卿は向きを変えてドアに向かった。「馬車のなかではあまり休めなかっただろう。ぼくはまったく眠っていないんだ。代わりの収入源については、ふたりとも休んでさっぱりしてから話し合おう」
「ちょっと待って!」マギーは驚いて叫んだ。誘拐者は足を止め、片方の眉を問いかけるように上げながら、うんざりした様子で振り返った。「この手をなんとかしてよ」マギーは縛られた両手をベッドの上に上げて見せた。彼はためらい、心配そうに彼女の顔を見たあと、肩をすくめて戻ってきた。
「いいだろう。走ってもどこへも行けないからな。使用人たちはとてもぼくに忠実なんだ」ラムジー卿はベッドをまわってマギーに近づき、そばにしゃがむと、彼に手を差し出すべく彼女が向きを変えるのを待った。彼女がためらって、すけすけのドレスをベッドで隠したままぐずぐずしていると、彼の口元にゆがんだ笑みが浮かんだ。「急に恥ずかしくなったのか? 鍋がこげついたあとでシチューをかき回すようなものじゃないか?」
 顔が赤らむのがわかったが、マギーは姿勢を変えなかった。馬車のなかで気を失っているあいだに彼にすっかり見られているのかもしれないが、いまは見せるつもりなどなかった。ラムジー卿はそれに気づいたらしく、にじり寄ってきて、彼女の手をつかんだ。マギーは唇をかんで、結び目をほどく彼の肩と腰が自分のそれと触れあう様子や、立ちのぼるじゃこうのような彼の香りを無視しようとした。彼は上等なブランデーと高価な葉巻のにおいがした――父と兄がクラブから戻ってきたときにただよわせていたこのにおいが、マギーはずっと好きだった。わたしを誘拐するまえ、彼はあそこにいたのだろうか、などとのんきに考えた。
「さあ、これでいい。今度は足首だ」彼はわずかに向きを変えて少しうしろにずれ、マギーが自分のほうを向いて脚を出せるようにしたが、マギーは品のない姿を見せる危険を冒したくなかったため姿勢をくずさなかった。
「こ、こっちは自分でできると思うわ」彼の視線を避けながら、かすれた声でつぶやく。彼がためらうのがわかったが、ほどなくして彼は立ちあがり、その場から離れた。
「起きたらベルを鳴らしてくれ。メイドがもっと快適な衣類を持ってきてくれる」寝室から出たラムジー卿が、最後にそう言ってドアを閉めると、マギーはゆっくりと力を抜いた。そのとき初めて、自分がいかに緊張していたかに気づいた。彼がそばにいると、カタツムリが殻のなかに引っこむように体がちぢこまってしまうのだ。
 自分の態度に首を振りながら、座りなおして足首に手を伸ばし、彼がやったときよりずっとゆっくりと縛めをほどいた。それでも縛られていたためにまだ手が少ししびれていて、いくぶん困難な作業だった。
 ようやく縛めが解けると、安堵のため息をつきながら慎重に立ちあがり、ベッドの縁に座って監房を吟味した。屋敷の外観は殺風景で威圧的だったが、内部はそのかぎりではなかった。この寝室は楽しげなライトブルーで、家具も寝具も新品に近く、高級そうだった。持ち主とは似ても似つかない。
 そんなことを考えている自分に顔をしかめ、ドアのほうを見て、一瞬脱出を試みようかとも思ったが、すぐに考えなおした。屋敷内で人びとが動きまわっている音ならもう聞いている。すぐにあちこちから使用人たちが出てくるだろう。それに、街に戻るわけにはいかない。ここからどっちに行けばロンドンかもわからないのだ。いや、田舎の荒野のなかに走りこんでも意味はない。とりわけこんな恰好では。