立ち読みコーナー
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登場人物紹介

マリー・バスクーム       バスクーム四姉妹の長女
ロイス・ウィンズロウ      英国の准男爵
ローズ・バスクーム       四姉妹の次女
カメリア・バスクーム      四姉妹の三女
リリー・バスクーム       四姉妹の四女
オリヴァー・タルボット     英国のステュークスベリー伯爵
フィッツヒュー・タルボット   オリヴァーの弟
マイルス・バスクーム      四姉妹の亡父
フローラ・バスクーム      四姉妹の亡母
コズモ・グラス         四姉妹の継父
イーガートン・サタスビー    コズモの知人
サム・トレッドウェル      ペンシルヴェニアの工場主の息子
シャーロット・ラドリー     オリヴァーの従妹
ヴィヴィアン・カーライル    英国の公爵令嬢。シャーロットの友人
ハンフリー・カーライル     ヴィヴィアンのおじ
サブリナ・カーライル      ハンフリーの妻
ミス・ダルリンプル       四姉妹の家庭教師兼付き添い婦人
平然とした顔を向けたロイスに、マリーはいらだちが湧いてきた。彼がごまかしているのはわかっていた。サー・ロイスがうそをついているのではないかと疑わずにはいられない。たしかにとても親切なのだが、やはり……。
「お金を受け取っていただくまで、お帰しするわけにはまいりません」マリーは腰に両手を当てて頑固に言い張った。
 彼はしばらくマリーを見ていたが、やおら、その瞳が輝きはじめた。「それならば、お礼をいただくことにしましょう」
 そう言って一歩前に出たロイスは、マリーのウエストに片腕をまわし、頭を下げてキスをした。

 マリーは驚いて動けなくなった。男性にキスされそうになった経験がないわけではない。ローズほどではないにせよ、これまでに何人か求婚者もいた。それに酒場でも、そういう場にいる女ならだれでも手を出してかまわないと勘違いしている男に腕をつかまれ、キスはおろか、それ以上のことまでされそうになったこともある。そういうときはさりげなくかわしたり、痛い目を見せたり、幅広いやり方で対処してきた。
 しかし、今回のキスには完全に意表をつかれた――流れるような動きはもちろん、キスそのもののめくるめく快感にも。彼の唇は引き締まっていてあたたかく、やさしいながらも有無を言わさず彼女の唇をひらいた。かすかにただよう謎めいたコロンの香りに感覚がくすぐられ、彼の体温や、唇の感触や、押しつけられる胸の感覚とあいまってマリーは頭がぼうっとし、息が切れてめまいまでしてきた。自分の体が熱くなってとろけるような気がして、マリーはもうしっかりと立つこともできず、ロイスのなかへ沈んでいくのではないかと思った。そんなことはもってのほかだということは、なんとなくわかっていた。けれど、いまこの場では、自分がこの瞬間に感じているもの以外はどうでもよくなってしまった。
 と、そのとき、抱きよせたときと同じくらい唐突にロイスは彼女を放し、一歩下がった。マリーは彼の瞳のなかに、自分の目にも浮かんでいるにちがいないのと同じ驚愕を見たように思ったが、彼はマリーよりも立ちなおるのが早かった。
 ロイスはやんちゃそうな笑みをちらりと見せたかと思うと、くいっと帽子を傾けた。「さて。いまのが相応の報酬だと思いますが?」
 返す言葉はおろか、なんの考えもマリーの頭に浮かばないうちに、彼はきびすを返して宿を出ていった。その背中を見送りながら、マリーは急に力が抜けてドアにもたれかかった。彼が視界から消えたあとも動けず、頭がくらくらしていた。いったいわたしはどうなってしまったの?
 ここが宿の廊下で、だれかに見られていたことも充分にありうると思い至り、マリーは体を起こして廊下の左右にすばやく目をやった。恥ずかしさに襲われ、いっきに頬が染まった。品のない自堕落な女のようにふるまってしまったのだ。
 震える手を上げて頬に当て、ほてりをさまそうとした。落ち着こうとした。こんなに取り乱しているところを妹に見せるわけにはいかない。サー・ロイスのふるまいは紳士ではなかったけれど、彼女のほうもまったく自分らしくない反応をしてしまった。ほんとうは、彼に平手打ちをくらわせたほうがよかったのだろう――少なくとも、押しやるくらいは。けれども今日はたいへんな一日だったから、とっさに動けなかったのも無理はない。それでも、あの奇妙なぼんやりとした状態からすぐに目を覚まし、彼の腕から逃げるべきだったのでは?
 キスされているときに襲われた、あの奇妙な心地よさ――熱気と、もどかしさと、激しい神経の昂りについては――いまは考えないことにしよう。
 マリーは深呼吸をしてスカートをなでつけるとあごを上げ、振り返ってドアを開け、勇ましく部屋に戻った。