立ち読みコーナー
目次
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登場人物紹介

クロエ・ファロン……………レストランのアシスタント・マネージャー
ルカ・アンブラス……………評議会に雇われた処刑人
ヘクター………………………評議会の長
セオドール……………………評議員
パブロ………………………… 〃
ベネディクト………………… 〃
アルマ………………………… 〃
マリー………………………… 〃
ナディア……………………… 〃
ダーネル……………………… 〃
エレノア……………………… 〃
イーノック……………………評議会の執事
レジーナ………………………反乱派のヴァンパイアを率いる自称女王
ソーリン………………………レジーナの手下
メロディー…………………… 〃
ジョナス……………………… 〃
アーロン………………………ルカの友人
ネヴァダ………………………魔女
ジミー・エリオット…………大学生
ケイト…………………………ジミーの恋人
ヴァレリー・スペンサー……クロエの同僚        
車の向こうから男の影が現われ、クロエはめそめそと小さな声をあげながら必死でポーチの階段を這いのぼり、携帯を手探りして番号を押しつつ肩越しに恐怖の視線を送った。目が……そんな、まさか、男の目が光っている?
「もう大丈夫だ、ミス」男は落ち着いた声で言った。まるで日曜日のように穏やかな口調だ。「彼がきみを困らせることはもうない」
 彼女はすくみあがり、その目を見あげた。男が光のなかに入ってきて、安堵があたたかな流れとなって彼女の全身を洗い、筋肉の緊張も心の震えもほぐれていった。襲撃者ではなかった。何者か知らないが、禿げの大男でないことはたしかだ。この男も長身で筋肉質だけれど、その動きはあくまで優雅で、まるで流れるようだった。
 着ているのはブーツにジーンズ、それから黒っぽい長袖シャツ、言わせてもらえば男性が着るもののなかで最高の取り合わせだ。髪も広い肩をおおうぐらい長くて黒い。男の長髪、好きだった? さあ。ブーツとジーンズが、いつからあなたの服装規定に当てはまるようになったの? そんなことどうだっていいじゃない。いまは好きなんだから。ほっとするあまり、彼のすべてが好ましく思える。ほっとしている場合なの、とぼんやり思った。この男は見知らぬ他人だ――助けてくれた人だとはいえ、見知らぬ他人に変わりない。「警察を呼ぼうと思って」彼女は手に持った携帯電話を示した。
 彼がほほえむと、一瞬だが、彼女は電話のことを忘れた。「警察は必要ない」
 そう、むろん必要ない。なんて馬鹿なことをしようとしてるの。危険は去り、悪人は消えた。いずれにしたって顔を見ていないのだから、人相を告げることはできない。「大きくて、禿げていて、腕を剥き出しにしていた」たったこれだけの特徴を並べて、逮捕してくれと言うほうが無理だ。それに、どうしてあんなに必死に九一一に電話しようとしたのか思い出せなかった。
 ポーチの階段に半分座り、半分横たわっている彼女の前に、男はしゃがみ込み、手を伸ばして彼女の腕に触れた。「怪我をした?」
「ちょっと慌てただけ」慌てただけ、動揺はしていない。ふと浮かんだ思いに笑いだしそうになった。喉は痛いし膝は痛いし、手も痛い。嘘をついたことに気づいた。手を表に返して手のひらの傷に目をやる。黒っぽい血が滲んでいた。「かすり傷よ、たいしたことないわ」
「見ていい?」彼女の許しを待たずに男は彼女の手を取ったが、尋ねてくれたことに、彼女はなんだか魅了され、慰められた。男の手はとてもあたたかく筋肉質で、手のひらを持ちあげる長い指は硬くて安心感を与えてくれた。クレアは気がつくと自分の手を見つめていた。彼の手のなかのその手は、なんて女らしくて繊細なんだろう。やさしく触れる彼の仕草から、彼もまた自分の手の大きさや力強さを強く意識しているのがわかった。自分を繊細な花のように感じることはめったになく、その感覚に戸惑っていた。わたしは思慮分別のあるクロエ、わたしは――九一一に電話しようとしてた? どうしてやめたの?
 不思議な気がしたが、心配になるほどではない。なんといってもいまはとても穏やかな気分だ。
 そのとき、彼が握っていた手を口もとに持っていった。手のひらのすり傷に触れる唇はやわらかだ。舌で軽く舐められたような気がするけど、ちょっと待って。舐めてるの?
「舐めたりしないで」彼女はきっぱりと言った。「あなたの名前も知らないのだから」
 彼は顔をあげた。笑いがその顔をよぎった。「ルカ」
 彼には独特の雰囲気があって……“猛々しい”というのとはちがう。“危険”、とか? ……もうひとりの男とおなじように。そう、彼を表現するなら“危険”がぴったりだ。彼はとても危険な感じがする。体つきががっしりしているだけではない、見た目というか表情から、肉体ばかりではなく精神もタフだとわかる。顔立ちはハンサムというのではないけれど、とても彫りが深くて、一度見たら絶対に忘れない。
 そう思ったとたん、まわりの空気が揺らめきだしたような気がした。昨夜はこの揺らめきが警告を与えてくれた。今夜は、それが夜の、この一瞬の一部にすぎないと思うだけだ。
 彼はとても目立つ。“かわいい”とは口が裂けても言えない、男らしさの塊のような人だ。日に焼けた肌が不思議なほど淡い色合いの目を際立たせる。目が合うたび、目を逸らすのは不可能に思える。そう、ぜったいに無理。ベルベットにやさしくくるまれて、不安も痛みも最初から存在しなかったかのように溶けだしていく。
「ルカ」彼女は言った。「アメリカ人の名前?」
「いや」彼はもう一度彼女の手を口にあてがい、傷口の上で舌をゆっくりやさしく動かした。彼女はそうされることを許した。だって名前を知っているから。自己紹介をしたもの……片方だけ。クロエは彼の名前を知っているのに、彼はこちらの名前を知らない。それはよくないことだ。
「わたしはクロエ。クロエ・ファロン」
 彼がまた顔をあげ、目が合う。「きみに会えてとても嬉しい、クロエ・ファロン」
 手の痛みが消えた。
「じっとしていて」彼がやさしく言った。「膝の傷も治してあげる。警戒しなくていい、怪我をしたことすら憶えていないだろうから」
「あら、憶えているわ」彼女はとっさに言った。
 彼はほほえみ、ペンシルスカートを膝の上までまくりあげると、すり剥けた傷口から血が細い筋を引いている部分に顔をちかづけた。
 クロエは大きく息を吸った。全身にぬくもりが広がった。安堵とはちがう。膝の上に屈み込む彼の黒い頭や、脛をつかむ力強い両手を見つめ、もう一度大きく息を吸い、思わずあらぬ想像を巡らせた。スカートがもっと上までまくりあげられ、彼の唇がもっと上へと動いていく。乳首がツンと立って、乳房がジンジンしてきた。もう、どうしたのよ。
 警戒しなくていい、と彼に言われたからそれに従った。でも、彼は“動揺しなくていい”とは言わなかった。
 彼がつかんでいる脚を少し持ちあげ、唇と舌を脛のほうへ動かした。爽やかな風がスカートを膨らませ腿をなぶる。クロエはバランスを保とうと少し後ろに倒れた。いまや階段に横たわり、脚を少し開き、怪我したほうの脚を彼の肩のほうへとあげてゆき……だめ。潜在意識がささやく。ブレーキをかけなさい。
「もう充分です」なんとか言ったが、声にまったく力がない。
 彼は無視するつもりかと思った。彼の唇は肌の上を軽く動きまわっていて、クロエは自分がどう感じているのかよくわからなかった――気持ちいい? 悪い? 彼が顎をふくらはぎにやさしくすりつけた。そのやさしい愛撫を最後に、彼は顔をあげた。「さあ」彼の声は心なしか掠れていた。「すっかりよくなった」