立ち読みコーナー
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〈ブラック・ダガー〉シリーズに登場する用語基礎知識

【第一階級/プリンセプス】(名)――princeps
 ヴァンパイアの貴族階級中最高の階級。その上に立つのは〈ファースト・ファミリー〉あるいは〈書の聖母〉に仕える〈巫女〉だけである。生まれつきの身分であり、他の階級に生まれた者がのちにプリンセプスに列せられることはない。
【トライナー】(名)――trahyner 
互いに尊敬と愛情を抱いている男性どうしで使われる言葉。おおよそ“親友”の意。
【オメガ】(固)――the Omega
悪しき超越的存在。〈書の聖母〉への恨みを晴らすため、ヴァンパイアの絶滅をめざしている。超俗界に生き、強大な能力を持っているものの、生命を創造する力はない。

(p37)より
 ブッチが〈ゼロサム〉を出たのは三時四十五分だった。裏に駐めた〈エスカレード〉は無視して、反対方向に歩き出した。息苦しい。ちくしょう……息が詰まりそうだ。
 三月なかばは、少なくともニューヨーク州北部ではまだ冬だ。しかも今夜は食肉貯蔵庫のように冷える。トレード通りをひとり歩きながら、息を吐けば白い雲がわき、それが肩のうえに漂っていく。この寒さと孤独がありがたかった。汗まみれの人でいっぱいのクラブを出てからも、まだ身体の火照りと息苦しさが消えない。
 〈フェラガモ〉の靴が舗道に固い音を立てる。汚れた雪の山と山のあいだにのぞく、細いコンクリートの帯を踏めば、かかとが融雪剤と砂を噛む。BGM代わりに、トレード通りの別の酒場からくぐもったビートが漏れてくる。営業時間はもうすぐ終わりのはずだが。
 〈マグライダーズ〉に近づくと、えりを立てて足を速めた。このブルース・バーを避けているのは、警察署の連中がよくたむろしているからだ。コールドウェル警察署のもと同僚には会いたくない。ふいっと行方をくらましたと思われているし、今後もそれはそのままにしておきたかった。
 そのとなりの〈スクリーマーズ〉からは、ハードコアのラップががんがん鳴り響いていた。迷惑なことに、建物全体がベース・エクステンダーと化している。そのクラブの前を通り過ぎたところで立ち止まった。店の側面に沿ってのびる路地に目をやる。
 すべてがここで始まったのだ。ヴァンパイア界への彼の奇妙な旅は、去年の七月にここで始まった。この場所で車両爆破事件があり、BMWが粉々に吹っ飛ばされ、男がひとり灰になった。物的証拠はなにひとつ残っていなかった。ただ、東洋武術で使う手裏剣が落ちていただけだ。あざやかなプロの手並みだったし、一種のメッセージのようだったが、その直後から売春婦の死体が路地で見つかるようになった。全員のどを掻っ切られており、血中のヘロイン濃度は雲突くほどに高かった。そしてそこでも、東洋武術の手裏剣が見つかった。
 彼もパートナーのホセ・デ・ラ・クルスも、車の爆破はヒモ関連の縄張り争いだろうと思い、売春婦が殺されたのは報復だと思ったが、彼はほどなく真相を知ることになった。自動車爆弾で殺されたのは、〈黒き剣兄弟団〉の一員ダライアスだった。犯人は一族の敵である?レッサー"。そしてその後の一連の売春婦殺しは、〈殲滅協会/レスニング・ソサエティ〉による戦略の一環で、一般のヴァンパイアを尋問のためとらえるのが目的だったのだ。
 まったく、あのころはヴァンパイアが実在するとすら思っていなかったし、九万ドルのBMWに乗っているとはさらに思っていなかった。しかも、高度な技術を駆使する敵に狙われているとは。
 ブッチはその路地を歩いていき、問題のBMW650iが天まで吹っ飛ばされた場所へやって来た。爆弾の熱のせいで、いまも黒い煤の輪が壁面に残っている。手をのばし、その冷たいレンガに指先を触れた。
 なにもかもここで始まったのだ。
 吹きつけてきた強風がコートをあおり、上等のカシミヤを浮きあがらせて、その下の高級スーツを打った。手をおろし、自分の衣服に目をやる。コートは〈ミッソーニ〉で、値段は五千ドルほど。その下のスーツは〈ラルフ・ローレン〉の〈ブラックラベル〉、三千ドルほど。靴はやや格下でたった七百ドル。カフスは〈カルティエ〉で五桁に近い。時計は〈パテック・フィリップ〉、二万五千ドル。
 ついでに、両脇の下に吊っている四二口径銃〈グロック〉は一挺二千ドルだ。
 つまり、いま身に着けているものだけで……あきれたな、四万四千ドル相当の高級百貨店〈サックス・フィフス・アベニュー〉とおまけの陸海軍だ。しかも、彼のワードローブからすればこれは氷山の一角ですらない。館に戻れば、クロゼットふたつぶんのべらぼうな値段の衣服が待っている……が、どれも自分の金で買ったものではない。すべて〈兄弟団〉の金だ。
 ちくしょう……他者(ひと)の金でめかし込んでいる。住む家はあるし、食うものにも困らず、プラズマ画面のテレビも見ているが、どれひとつ自分のものはない。自分では金を払わずにスコッチを飲み、自分のでない高級車を乗りまわす。その見返りになにをしている? ぜんぜん大したことはしてない。ことが起きるたびに、兄弟たちにベンチに引っ込められて――
 足音がした。路地の奥のほうから、激しく地面を蹴る音がぐんぐん近づいてくる。ひとりぶんではない。
 ブッチはするりと影の奥に引っ込み、コートとスーツのジャケットのボタンを外した。必要とあれば、これですぐに銃が抜ける。他人の問題に首を突っ込む気はなかったが、罪もない人間がやられているのなら、彼はそれを黙って見ていられる人種ではない。
 内なる警察官はまだ死んでいなかったらしい。