立ち読みコーナー
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 タマラは湯のみを両手で包み、湯気を吸いこみながら、相手の顔を観察した。認めるのはしゃくだけれども、この男に惑わされないようにするには、予想以上の気力を要した。うっかりすると、言語どころか、しゃべり方まで変わってしまう。
 エリンは冗談を言っていたのではなかった。しかし、どういうわけか、タマラはよくいるモデルタイプの美男子を想像していた。考えてみればそんなはずはないのに。なんといっても、エリンはコナーと結婚したのだ。あの荒削りで猛々しい男ぶりのよさは、タマラでさえなかなかのものだと思う。いかに気難しい女の目から見ても。
 それでも、何をどう想像したにせよ、こんな……とにかく、これが現われるとはまるで予想外だ。
 命取り。それが、最初にぱっと頭に浮かんだ言葉だった。情けないことに。でも、そう思わせるほど強靭で、精悍な男だ。野性的でありながらも、研ぎ澄まされた精神を感じさせる。見た目にヤワなところはないが、つややかな黒髪だけはべつだった。ミンクのように柔らかそうで、思わずその触感を確かめたくなる。そして、黒い瞳、くっきりとした眉、長いまつ毛。
 顔立ちははっとするほど端正で、腹がたつくらい肉感的だが、その笑顔には抗いがたいものがある。わたしには男の色気など通用しないものだと思っていた。でも、それならなぜ、こいつが笑みを漏らしたときの頬の動きや、浅黒い肌によく映える真っ白な歯に見とれているの? しっかりしなさい、タマラ・スティール。この男は絶対にだめ。
 ビジネスマンを自称していても、顔には受難の跡が多々見られた。少しだけごつごつとして、わずかに歪んだ鼻。りりしい眉のはしに斜めにかかった白い傷跡。もっと目立たない傷跡もいくつかあったが、それに気づいたのは、タマラが美容整形の出来ばえを判定することに慣れているからだ。そして、言うまでもなく、あの手。戦いの人生。苦闘の連続。勝ちが大半を占めるのは間違いない。この覇気からすれば。
 そう、覇気。全身からビリビリと伝わってくる。ふつうの人間に感じ取れるものではない。修羅場を生きて、何度も地獄を見た者だけが察知できる周波数だ。ただし、過去にタマラが不運な関わり合いを持った異常者どもの周波とは違う。ノヴァクやゲオルグ、ドラゴ・ステングル。やつらの発する電波には拒絶反応しか起きなかった。
 ヤノシュに対する反応はそうじゃない。同じ危険といっても、危うい男の色香がカクテルみたいにブレンドされている。そして、飲み干せと迫ってくる。申し分のない紳士の仮面の下から、ヤノシュはタマラを抱きたいとささやきかけているようだった。前から、うしろから、横から。試してみる価値はあると説き伏せようとしている。
 タマラとしても、それは疑わなかった。でも、たとえ体がざわめき、肌がぞくぞくして、胸が高鳴っていたとしても、耳を貸すわけにはいかない。お遊びで来たわけではないのだから、それに徹するべきだ。
「あなたがいま見せようとしている姿は、ただの隠れ蓑」タマラは言った。「確かに魅力的で、女性に目がなく、底知れない男というふうに見えるけれども、ミスター・ヤノシュ、細かなところが本性を露呈している。日常的にボールペンやパソコンのマウスより重いものを持たない手なら、もっと柔らかいはず。でも、あなたの手は傷跡やたこでごつごつしている。それに、その顔。鼻を折ったことがあるわね。しかも何度も。格闘技のクラブのせいにしても無駄よ。お金持ちで洒落者のビジネスマンが練習中に怪我をしたなら、治しもせずに放っておくかしら? そうとは考えられない」
「話の意味がよく――」
「つまり、子どものころのこと」スティールはよどみなく続けた。「誰も治してくれなかった。貧しかったせいか、放任されていたせいか、その両方か。あなたの雰囲気からすると、その当時から都会で暮らしていたと考えられる。それに、顔の傷跡。唇の上に小さなものがひとつ、眉にかかっているものがひとつ、髪で隠そうとしているけど、ひたいにもひとつ。その六千ユーロの高級スーツの下に、あとどれだけ隠されているかと考えずにいられないわ。レーザーやピーリングの治療を受けても、わずかな痕跡はいつまでも残るもの」
「スーツを気に入っていただけて嬉しいですよ」ヤノシュが何食わぬ顔で言う。
「田舎育ちではないわね」タマラは続けて言った。「でも、ローマの出身でもない。ローマ生まれの人間に特有の訛りがないわ。抑揚のつけ方はローマ人らしいけれども、わたしの耳には、生まれつきの言語ではなく、あとで覚えた言語のように聞こえる。あなたは、どこかほかの場所で生まれ、ほかの言葉を使って育ち、ある程度の年齢になってからその完璧なイタリア語を身につけた。それに、あなたは荒波に揉まれて育った。相当の荒波に」
 ヤノシュは凍りついたようにタマラを見つめていた。瞳は黒い曇りガラスみたいだ。「続けて」ヤノシュが言った。
 タマラは湯のみを置き、指を組んで、荒々しく渦巻く波に身を投じるように、さらなる推理を進めた。真っ暗な謎の洞窟を小舟で進んでいる気分だ。本当の広さを推測する手がかりは、空気の揺らぎ、反響、遠くから聞こえる蝙蝠の羽ばたきしかない。危険な冒険だ。でも……興奮する。
 一瞬、ヤノシュの端正な顔をのぞくように見てから、また話しはじめた。「あなたはプレイボーイで、女の落し方をよく知っている。セックスで女を操ることに慣れている。でも、同じ力を持つほかの男たちと違って、それをプライドの拠りどころにしていない。その顔立ちと体つきならそうなって当然でしょうに――」
「ありがとう」ヤノシュがつぶやいた。
「褒めたんじゃないわ、ヤノシュ」タマラはいらいらと言った。「分析しただけ。お世辞を言ったわけでも、気を惹こうとしているわけでもない」
「それは、残念」驚いたように、一瞬間を置いてから言う。
 タマラは皮肉の言葉を聞かなかったことにした。「あなたはセックスを道具としてうまく使いこなしている」話を続けた。「でも、その手管が効かなかったとしても、自尊心を傷つけられることはない。ただ、戦術を変えて何度でも挑むだけ。何度はねのけられようと、あの手この手で取り入ろうとする。このことから、男性優位の意識が欠けていることがうかがえる。わたしが知る限り、どんな文化で生まれ育った男にせよ、極めて珍しいこと――とりわけ、イタリア生まれを自称する男にしては。一般的に、イタリアの男は謙虚という言葉を知らないし、自制心も強くない。セックスに関してこれほど冷静で、計算高い人間となると、わたしに思いつくのは、性を売り物にする連中のなかでも一級のエキスパートね」
 ヤノシュの視線が揺らいだ。
 タマラはここぞとばかりに攻め入った。「あら、痛いところを突いてしまったみたい」つぶやくように言った。「ジゴロの経験があるのかしら、ミスター・ヤノシュ? 世間にこうと思いこませているよりも毒々しい過去があるのでは? あなたこそ、人には言えない危険な秘密を隠しているんじゃなくて?」
 ヤノシュはタマラをじっと見つめている。目は燃えるようだ。
「ひとつ教えて、ヤノシュ」タマラはささやいた。「人に命じられたら、股間のものを硬くできるのかしら?」
 ヤノシュはむっつりと口を引き結んでいた。「ああ、できる」やがてそう答えた。「しかし、きみを前にすれば、努力など必要ない」
「なんてすてきなお世辞。喜んでいいんでしょうね?」
「テーブルの下に手を伸ばして、近い未来のきみがどれだけの満足感を得られるのか、いますぐ確かめてみればいい」
「まあ」タマラは驚きを装った。「完璧な紳士の仮面にひびが入ってしまったみたい」
「きみがアイスピックで粉々に砕いたのだから、驚くことじゃないだろう。さあ、さわってみろ。訊いたのはきみだ。失望させることはないと思うね」
 タマラはヤノシュを見つめた。胸が高鳴っている。タマラが仕掛けたゲームは手の内をするりと逃れ、ひとり歩きを始めていた。この男の誘いに応じたいと思っているのだ。股間に手を伸ばし、どれほど熱く、硬いのか確かめたい。脈打つ生命力をこの手で感じたい。ふたりのあいだで無言のやりとりが渦巻いた……