立ち読みコーナー
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 ブライオニーの継母がレオを夕食に招かなければ、ふたりの道が交差することはなかっただろう。
 チューリッヒの医学学校を卒業すると、ブライオニーは王立自由病院で臨床の研修を積み、新婦人病院でレジデントとして勤務するようになった。どちらもロンドンにある病院である。通勤に便利だったので、ブライオニーは父や妹や継母や継母の息子たちといっしょにアスキスのタウンハウスで暮らしていたが、家族の集まりにも社交の集まりにも最小限しか参加しなかった。
 レオが夕食に招かれた日も、自分の夕食は自室に運ばせようかとなかば思いかけていた。その日は長いシフト勤務を終えたあとで、体調がすこぶるいい日でも、客をもてなす気分になることはこれまで一度もなく、その日は長いシフト勤務を終えたあとだったからだ。しかし、自分が抜けると食卓につく人数が十三人になってしまうため、渋々着替えて応接間へ出ていった。
 そしてそこへやってきたレオにほほ笑みかけられたのだった。その晩は自分が何を食べ、何を話したかあいまいで、話をするときにきらりと光るグレーの目やほほ笑むときの口の形など、彼のことだけが意識された。
 その日からというもの、ブライオニーは彼の姿を探して生きるようになった。彼が現われそうな場への招待はすべて受けた。王立地理学会で行なわれ、多くの聴衆を集めたグリーンランドについての彼の講演も聞きに行った。数学会で彼が論文を読むのも聞きに行き、多くの人に驚きの目で見られもした。論文は最初の一分より先は何ひとつわからないことばかりだったが。
 奇妙なことに、彼の気を惹きたいとはまったく思わなかった。酔っ払いは酒瓶に愛を返してほしいとは思わないものだ。彼女もできるかぎり彼を飲み尽くしたいとだけ願っていた。
 しかしそれも、彼にキスされるまでのことだったが。
 それは彼の一番上の兄、ワイデン伯爵の家でのことだった。応接間で音楽会が開かれているあいだ、図書室で起こった出来事。レオの姿が見えず、ブライオニーは落胆していた。一時的にワイデン家を住まいとしていた彼もその会には参加するにちがいないと思っていたからだ。とはいえ、まだ帰るわけにはいかなかった。子供のころ、他人との接触を望まなかったキャリスタが、なぜか大人になってからはホモサピエンスが大勢集まる場所をおおいに気に入っていたからだ。
 そこでひとりになって百科事典の世界に没頭することにした。揺籃期本(インキュナブラ)、インダゾール、インデン、禁書目録(インデックス・リブロルム・プロヒビトルム)。
 ふいに図書室にいるのが自分だけでないことがわかった。ドアに背をつけて彼がなかに立っていた。
「ミスター・マーズデン!」どのぐらいのあいだ、そこに立ってわたしを見ていたの?
「ミス・アスキス」
 目は笑っていなかった。彼のそんなまじめな顔は見慣れないものだった。いつも誰よりも陽気な人間だったのだから。やがてその顔に笑みが浮かんだ。目の見えない人に光を与え、耳の聞こえない人に音楽を与えるような魅惑的な笑みだ。しかしその笑みでさえ、その裏に医者として不安になるような何かを抱えていた。
「ぼくがきみならその机で本は読まないな」と彼は言った。
「え?」
「チャーリーもウィルもその机の上で童貞を失ったんだ」 
 ブライオニーは手をむきだしの喉にあてた。激しく脈打つ血管が親指に感じられた。「なんてこと」とようやくの思いでことばを発する。悲鳴よりはましだったが、似たようなものだった。
「どうしてそこから離れないんだい?」彼はやさしさを装って言った。
 ブライオニーは離れたかったが、なぜか足がゴムになってしまったような気がした。「きっと、わたしの純潔がこの家で穢されることはないもの」
 レオはドアを離れ、机のそばまで来てまた笑みを浮かべた。地上に平和をもたらすような至福の笑みだ。「誰かに純潔を穢されかけたことがあるのかい、ミス・アスキス?」
 ブライオニーはこんな驚くほどに不届きな会話を誰かと交わしたことはなかった。それでも、彼にやめてほしいとは思わなかった。そのことばに暗い喜びをかき立てられたのだ。濃厚なチョコレートに含まれた上等の酒を味わうように。
「わたしの純潔になんて誰も興味がないわ。それを穢そうとすることにも」
「そんなはずはないな」
「そうよ」
「そう言い張るなら、それでもいい。ただ、純潔を守っているご婦人とだって大きな罪は犯すことができる」
 なんてこと。ブライオニーは唾を呑みこんだ。「きっとそうね。でも、言っておくけど、わたしがどんな罪を犯すにしろ、それは肉体的なものではないわ」
「ぼくのはそうだ」彼は小声で言った。「なんであれ、ぼくの罪は肉体的なものでもある」
「そう、それは……あなたにとってはいい気晴らしになるんでしょうね」
 レオはさらに近づき、彼女がすわっている椅子のすぐそばまで来た。「正直に言うよ、ミス・アスキス。ぼくは男という種族が当然きみから受けるべき関心をどうしても受けとらずにいられない強い衝動に駆られているんだ」
「その――男という種族にわたしが当然与えるべきものなんて何もないはずよ」
 レオは前に身を乗りだし、椅子の肘かけに手を置いた。「それは絶対にちがうね」
 ブライオニーは椅子の背に体を押しつけた。「それで、それを改めるのにどうするっていうの?」
「もちろん、きみと愛を交わすのさ。念入りに、飽くことなく」
 めろめろに溶けてしまった自分が机の下にすべり落ちてしまわないのが不思議だった。「ここで!?」
 今度は震えてあえぐような悲鳴となった。
「この机がふしだらな行為を呼ぶ机だと警告しなかったかな? 逃げられるときに逃げるべきだったね。もう遅すぎる」
 最後のつぶやきはほとんど彼女の唇の上で発せられた。嵐のなか、しっかりしまっていない鎧戸のように、ブライオニーの心臓は大きな音を立てた。遠くの応接間で誰かがベートーベンの第五交響曲の最初の小節を奏ではじめた。才能があるというよりも野心的な演奏だ。図書室の隅にとらわれた今、ブライオニーははじめて悟った。そう、これこそが彼に求めるものだったのだ。この親密さ、このどうしようもなく不安定な感じ。
 そこでレオが笑い出した。真面目な顔を長くつづけるのに耐えられず、噴き出したというように。「ごめん。ここへ来てみたら、きみがあまりに熱心に本を読んでいるから、我慢できなくてね」
 からかわれていたのだとわかるまでに、心臓が十二回脈打った。すべてなんの意味もないことだったのだ。
「行こう」レオは腕を差し出した。「妹さんがきみを探していたよ。見つけて連れてくると約束したんだ」
 ブライオニーは立ち上がって彼を押しのけるようにした。「つまらない冗談だったわ」
「すまない。本気で言ったわけじゃないんだが、きみがうれしくなるほど純粋だったから――」
「そんなに純粋じゃないわ。愛を交わすなんて、ペニスでヴァギナを何度か貫いて、そのあいだに精子をばらまくってだけのことでしょう?」
 レオはぎょっとした顔になった。が、やがてゆがんだ笑みを浮かべた。「そいつはなんとも高尚な説明だな。ぼくなど、そういったことは愛のことばをささやいたり、詩を作ったりといったことだと思っていたんだが」
「まあ、わたしたちのどちらか一方でもそれがおもしろいと思うなら、よかったわね」
 ブライオニーはむっとしてそう言うと、ドアへ向かった。が、レオのほうが先にドアのところに達していた。
「きみは怒ってる。ぼくはそんなにひどいことをしたかな?」
「ええ、したわ」これまでわたしは忠実な犬さながらにこの美しい若い男のあとをついてまわっていた。彼にとってはわたしなど、ただの年かさの処女――恐ろしいことにもうすぐ二十八歳になろうとしている処女――にすぎないのに。わたしと親密になるというのは、彼にとっては最初から最後まで笑い話にちがいない。「言っておきますけど、男のかたからの賛美には不足していませんの。それに、自分の純潔を守って罪を犯すやりかたもちゃんとわかっているわ。自慰行為っていうのもあるし。手を巧みに使うやりかたや、口による刺激もあるし。もちろん、昔ながらの――」
 レオは彼女にキスをした。どうしてそういうことになったのか、ブライオニーにはわからなかった。怒って彼をドアに追いつめてまくしたてていたと思ったら、次の瞬間には自分がドアに押しつけられ、キスをされていたのだ。ショックのあまり身が凍りついたようになった。
 レオはわずかに身を引き離した。「なんてことだ」とつぶやく。「ぼくがいきなり?」
 背中を押しつけているドアが震える気がした。応接間から聞こえてくるGフラットやFフラット、Dフラットの音がブライオニーの脊椎に熱く突き刺さった。レオ・マーズデンにキスされた。それがどういう意味を持つのか彼女にはわからなかった。最近の若い人はたのしむためにキスをするものなの? 謝罪を求めるべきなのだろうか? こんなふうに許しもなく唇を奪われた場合、女は男を平手打ちするもの?
「一瞬、きみが求めたように……」声が途切れた。
 もちろん、彼にそうしてほしいと思ったことはあった。外見は年かさの処女にすぎなくても、その下にはこの街の診療所という診療所で乱痴気パーティーを開くメッサリーナがひそんでいるのだと思ってもらいたかったのだ。しかし、そのこととどんな関係があるのだろう?
「もっとちゃんとしたキスをしてもいいな」とレオがつぶやいた。
「そうね、そのほうがいいわ」ブライオニーはまだ怒りに駆られながらそう言っていた。
 彼の唇がすぐそばまで降りてきた。「石鹸はどんなものを使っているんだい?」
「わからない。一番香りの強いものよ」
「きみはほかの女とはちがうにおいがする」
「ほかの人たちはどんなにおいがするの?」
「花とか、スパイスとか。じゃこうの香りがすることもある。きみは強力な消毒液のにおいがする」
 ブライオニーは彼の口をじっと見つめた。「強力な消毒液のにおいが好きなの?」
 レオの口の端がわずかに上がった。それから彼はまた彼女にキスをした。探るようでいながら、急がないキス。蝶が止まるように軽く、潮が満ちるのを待つように我慢強いキス。誰に見られてもかまわないほど罪のないキスでもあった。彼は顎の下に指をあてがっただけでほかのどこにも触れていなかった。落ちていくような、飛んでいくような妙な感触のキスだった。
 だからみんなこういうことをするのね、とブライオニーはぼんやりと思った。キスは病気がうつる確率の高い行為なのに。それでも妙に気持ちのよい行為、息を奪われるような行為でもある。電気が走るような気もする――唇の動きで電流が生じるにちがいない。体じゅうの神経が焼けるようで、細胞のひとつひとつが歌を歌っていた。
 いつキスが終わったのかはっきりしなかった。恍惚状態から覚め、まわりのすべてが焦点を結ぶようにするには、まばたきしなければならなかった。
「二度とぼくにキスはしないと約束してくれ」レオが言った。「そうじゃないと、ほかの女たちにとってぼくは使いものにならなくなってしまう」
 きっとこれまでキスをした女全員に同じことを言っているのだろう――自然に発せられたにしてはできすぎのセリフだった。それでも、ブライオニーはそのことばにぼうっとなった。彼女はゆっくりとうなずいた。
「よし。ぼくを振ったら赦さないからね」レオはにっこりした。神に愛された麗しき若者そのものといった笑顔。「じゃあ、キャリスタが探しに来る前に行こうか?」